前回のつづき)ひとりのひとの中に感じるたくさんのひとであったり、別々のひとの中に感じるひとりのひとであったり。

その感覚は、最後には結局は、「全体のすべてがひとつ」という感覚にゆきつく。

いろいろな顔をして同じことがあらわたり、ひとつの顔をしていろいろなことがあらわれたり。

おおきな感覚に近づいてもなお、そこにそのひとの質を感じる、という「誰か」もいて、それはきっと、自分という個の質を共有する「誰か」なのだろう。

けれど、それもはとても静かなことだし、印象的ではあっても途中の地点であって、その先ではふわりと溶けゆく。

溶けた先からそれを見つめるのと、その地点でそれを凝視するのとは、景色がまったく異なる。

「ひと」という表向きの単位にこだわると見えなくなってしまう。