くっきりとした風景が広がっている。
光は強く、しっかりと照らしている。太陽の光なのか、人工の光なのか、わからない。光源に視線をやると、目がくらんでそこに何があるのか見定めることはできなかった。その強い光に、そこにある物たちは不思議なほどにはっきりとした濃い影を落としている。
あまりに濃い影に目をやる。影は深過ぎて、黒を超えて、どこか藍色のような、混ざりあう宇宙のような、不思議な色をしている。そこに足を踏み入れたら、そのままどこかへ深いところへと落ちていってしまうような、そんな色だった。
影から視線を上げると、そこには白い建物が建っていた。二階建てのちいさな家。教会のような形をしていて、けれど十字架は掲げられていない。あたりは静かで、音はしない。まわりの風景は光に溶けてしまっていて、ここがどこなのかよくわからない。真っ白な建物と漆黒の影。そのふたつだけがそこにある。
影を踏まないように、気をつけて歩く。白い建物は、あちこちがガラス張りになっていて、光はその内側まで通っている。入り口はアーチ型になっていて、扉はない。そのまま中に入る。中へ入ると、窓ガラス越しに光はやわらいで、光がやわらぐのと同時に影の濃さもやわらいで、彼女はほっとする。もう大丈夫。
白い建物の内側は吹き抜けになっていて、天井のあちこちにつくられた丸い天窓から光が差し込んでいる。ガラスは全て磨りガラスで、透明な光はミルク色になって、白い建物の白い部屋へと降りてくる。内側はひと続きで、他に部屋はないようだ。奥にも窓がいくつかあって、そこからも光が差し込んでいる。壁も床も全てが白い。
まん中に、木でできた椅子が三脚置いてある。誰も座っていない。椅子はこの部屋には似つかわしくなく、どこかから無理矢理持ち込まれたかのようだ。座部にクッションはなく、横長の板が五、六枚、無造作に打ち付けられている。つくりは乱雑で、かなり古く、使い込まれたもののようで、まっすぐ立っているようにも見えない。腰を下ろしたら体の重みで崩壊してしまうかもしれない。三脚ともがそんな様子で、無造作に置かれていた。
彼女は、椅子のひとつひとつを観察し、そこについた傷を見つめた。一脚に、誰かが何かを掘った跡があった。頭の中で何かがカタチを成そうとする。何かが思い出せそうで、思い出せなかったのか、はたまた、思い出そうとする自分に自分で蓋をしたのか。一瞬の出来事で分からなかった。きっと後者なのかもしれない。どこかでそう思った。立ち上がろうとしたその記憶は、足下から崩れ去って地面に溶けて消えていった。
三脚の椅子のちょうど横に螺旋状の階段があって、ロフトのようになっている狭い中二階へと通じている。ロフト部分は空中に浮き出た島のようになっていて、螺旋階段に支えられて建っているようにも見えたし、天井から伝う透明のワイヤーで吊るされているようにも見えた。
けれど、螺旋階段はあまりに華奢だし、ワイヤーはどこにも見当たらない。構造上不可能なように見えるそれは、まるで宙に浮かぶように空中に存在している。ロフトの四方は磨りガラスの壁に囲まれていて、中に何があるのかここからは伺い知れない。
三脚の椅子を見やりながら、階段の手すりに手をかける。鉄製の手すりだけは白くなく、白い空間にそっと浮かび上がっている。手を添えるとひんやりしたが、その冷たさを振り払うようにさらに強くぎゅっと握る。
階段に足を一歩かける。
どこかで、嫌な予感がする。
何だろう?
さっき記憶に蓋をしたように、誰かが記憶の壷に蓋をしようとする。けれど、蒸発する気体が漏れるように、そこからは何かが吹き上げてくる。階段を上る足は止まらない。止まらないどころか、気づくと彼女は駆け上がっていた。
ロフト部分に躍り出て。
そこには女性がうつ伏せになって横たわっていた。
死んでいる。
直感的にわかった。触らなくてもひんやりしていることが分かる。触れなくても、そこに生命が宿っていないことが分かる。
袖のない白いワンピースを来た髪の長い女性が、うつ伏せに倒れている。うつ伏せになった顔の大部分は黒い髪で覆われていて、様子がよくわからない。背格好はちょうど彼女と同じぐらいだ。年齢もそう変わらないのかもしれない。
女性の手は前方に伸びていて、何かを掴もうとしていたのか、触ろうとしていたのか、まるで何かを求めるように指は伸びていた。その部分だけが、まだ生きているかのように感じられた。
彼女はその女性をしばらく見下ろしていた。驚いている。突然現れた死体に。そして、死体を前に冷静な自分に。驚きながら、何を考えればよいのか考えていた。
膝丈の白いワンピースからはすらりと脚が伸びている。靴は履かず、素足のままだ。足は泥で酷く汚れていた。外から素足で歩いてここまで来たのだろうか?
彼女の中で、何かがカチっと音を立てる。
すると、白い建物を取り囲む光の様子が、唐突に、けれど確実に変化を始める。日が暮れるのか。電力供給がストップするのか。理由は分からない。外の光はどんどん弱く、薄くなってゆく。真っ白な部屋は、どんどん薄暗闇に変わってゆく。踏まないように気をつけていたあの影と同じ匂いがする。その暗闇がどんどん滲み出してくる。
ここから出なければいけない。
彼女はそう感じて、脚を動かそうとする。けれど、両脚は強ばって、思うように動かない。出てゆこうとする自分と、留まろうとする自分と。ふたりの自分の狭間に囚われている。
女性の死体を見下ろしたまま、体を動かせずにいる。視線すら動かせず、死体を見つめたままでいる。すると、その死体の胸の辺りから、少しずつ、真っ赤な血が流れ出して広がっていった。暗闇が刻々と滲み出す中、残された光がかろうじてその赤を映し出す。
思ったよりも鮮やかで、思ったよりもさらさらと流れる血液。広がる血を見つめている。そうする内に、血を流しながら、血が流れるからこそ、この女性が生き返るのではないか、そんな予感が彼女の脳裏を過る。
血を失いながら、生き返る。
そんな訳はなく、けれど今、この状況においては起こり得る、そんな気がするのだ。息を吹き返した女性と話しがしてみたい。彼女はそう考えた。けれど、迫り来る暗闇からは必ず逃げ出さなければいけない。
その時、まるで解錠されたかのように、両脚が突然、軽やかに動き始めた。考える間もなく、彼女の体は向きを変え、螺旋階段を猛スピードで駆け下りてゆく。振り返ることなく。
冴えない三脚の椅子は、すでに暗闇に呑まれていてよく見えなかった。そのまま一階の空間を走り抜ける。白い床ももう暗闇の一部になっている。そのままの勢いで、アーチ型の出入り口を抜け出る。
飛び出た途端。
暗闇も、眩し過ぎる光の余韻も、その全ては魔法のように一瞬にして消え去った。
そして。