そこにあるのは、長閑な昼下がりの太陽の光だった。
振り返ると、そこには小さな教会があった。出て来たばかりのはずなのに扉は閉められていて、ガラス窓の向こうに中を覗くと、そこには木製の椅子やベンチが何列かに分けて丁寧に並べられ、奥には祭壇があって、その背後に十字架が掲げられていた。
ごく普通の教会だった。白の部屋も、螺旋階段も、空中の四角い箱のようなロフトも、全てが消えていた。木製の椅子のいくつかが、さっきまでそこにあった三脚の椅子と似ているようにも見えた。
間に合ったんだ。
理由も、仕掛けも、何がどうなっているのかも、よくわからない。けれど、ぎりぎりのタイミングで、抜け出したのだろうことはわかった。自分の様子を改めて見てみる。ジーンズに半袖の白いTシャツ、スニーカーを履いていた。髪はくるっとまとめてアップにしてあったようだが、慌てて走ったせいか後れ毛が顔の両脇にひらひらしている。
出入り口を抜けた時、あの世界は閉じてしまったんだ。
抜け出さなければいけなかった。そして、ぎりぎりのところで間に合った。
けれど、いつかきっと、あの世界に戻らなければいけない。そして、あの女性と「話し」をしなければいけない。
問いは山ほどあって、けれど、浮かんではどこかへ呑まれていった。呑まれてゆく様子を見送りながら、彼女は問うことを止めた。今は問うても仕方ない。いずれきっと、またあの世界に入り込む時が来るのだ。そしてその時にはきっと、あの女性と「話し」をするのだろう。その予感だけがあった。
眩し過ぎる光、迫り来る暗闇は嘘のように消え去って、長閑な午後の景色が広がっている。真夏ではないのだろうが汗ばむほどにはあたたかく、半袖のTシャツが心地よい。
教会のまわりには木々が生い茂っている。建物の前は小さな広場のようになっていて、その先に細い一本道があり、その向こうに小さな集落が見える。そこに住む人々が通う教会なのだろう。車は通れないだろう細さの一本道は舗装されておらず、デコボコしたままだ。泥濘んだ時に往来があったのか、自転車ものと思われる轍がいくつか深々と残されている。
長閑な光景に安心し、彼女はようやく教会の入り口にある三段ほどの階段に腰を下ろした。座ってみてはじめて、ずっと極度に緊張していたことがよくわかった。体中に冷や汗をかいていて、Tシャツのあちこちが汗で湿っている。コンクリートの階段に両手をついて、空を見上げる。
陽は、ほんの少しだけ傾き始めている。よく晴れていて、薄い雲が少しだけ浮かんでいる。あたりから針葉樹の香りがする。コンクリートは太陽の熱を集め、お尻の下が少しだけほくほくする。その全てが彼女をほっとさせた。
ふと目をやると、集落から続く小道を自転車でやって来る人がいる。教会で何か集まりがあるのだろうか。自転車にカゴは付いておらず、代わりに大きなライトが付いていて、車体の全体が深緑色をしていた。
乗っているのは、三十代半ばぐらいに見える男性だった。きっと背が高いのだろう、自転車がやたらと小さく見える。短めの髪は髪質が柔らかいせいか、風に吹かれて無造作に揺れている。VネックのグレーのTシャツにジーンズ、足もとはサンダルで、家からひょっこり抜け出てきたかのような格好だった。慣れた様子で轍にはまらないよう上手にハンドルをさばきながらやって来て、教会の前の広場に自転車を停めた。
立ち上がろうとも思ったし、ここを去った方がよいのではないかとも思った。思ったが、緊張の解けた体が体重の全てをコンクリートの階段に預けていて、立ち上がることができない。きっと悪い人でも、怖い人でもないだろう。彼女は本当にそう直感したのかもしれないし、それは座ったままでいる自分への言い訳だったのかもしれない。
「森の奥の方まで行ったの?」
彼は心配そうな顔をして、そう話しかけながら彼女の方へと歩き、彼女の横に腰を下ろした。洗い立てのタオルのような声をしている。
知り合いなんだ。
横に座ったその人の顔を覗き込んでみる。ハンサムと言う訳でもないけれど、不思議と魅力的な顔立ちをしている。睫毛がやたらと長く、長い睫毛に守られた瞳は、グリーンとゴールドが混ざったような不思議な色をしていた。よく顔を見てみたが、誰なのか、自分にとっての何なのか、まったく思い出せなかった。
分からないということを話してしまってもよいのかもしれない。でも、それが怖かった。そうしてしまうと、一瞬にしてさっきの世界に引き戻されてしまう。そんな予感がした。予感に過ぎないのだろう。でも、少しでも可能性のあることはしたくない。いつかあの世界に戻るとしても、それは今ではない。あまりに疲れ果てている。どうにかして、この「長閑な午後の世界」に属さなければいけない。嘘でも何でも。
「少し入ったところで迷ってしまって。引き返そうとしたのだけど」
初めて自分の声を聴く。高過ぎるような気もするし、低過ぎるような気もする。もっとゆっくり話した方がよかったのかもしれないし、もっとテンポよく話した方がよかったのかもしれない。この喋り方が正解だったのか分からなかった。
「この間、近所の人がくれた地図、持って来たの?」
そう言われてポケットを探ってみると、四つ折りにされた紙が入っていた。開いてみると、集落と、一本道と、教会、森の全体像とその中を流れる小川、そして、森の中のいくつかの主だった目印が手書きで簡単に記されていた。地図を広げ、しばし眺めてみる。何か思い出せるかもしれない。
「どの辺まで行ったの?」
彼が言う。地図を見ると、教会の裏手から入ってほどなくしたあたりに「祠の木」と書かれており、幹のまん中に穴の空いた木の絵が添えられていた。
「この木ところまで」
結局何も思い出せず、仕方なく教会から一番近い地点を選んで答えてみる。
「その割にずいぶん時間がかかったね」
彼は訝しく思ったようだった。自分が一体どのぐらいの間不在にしていたのか分からないし、森の中の様子も全く分からない。不必要な嘘は避けて、不用意なことは言わないように気をつけなければいけない。
「少し前に森からは出て来ていたの。この辺りでちょっとのんびりしていたら時間が経ってしまって」
「そうか。ずっと迷っていたのかと思ったよ」
彼はほっとした様子で、彼女の顔を覗き込み、微笑んだ。どこか懐かしい笑顔だった。きっと長い知り合いなのだろう。記憶はまったくないけれど、懐かしいという感覚が起こるのが不思議だ。懐かしさと記憶は別個のものなのだろうか。彼の笑顔につられて彼女も微笑む。不確かな会話がどうにか成立したことに、ほっとしたのかもしれない。
「お腹、空いた?トマトのスープでよければ、ちょうど煮込み終わったところだよ。パンは帰りがけに角のパン屋で買えばいい。他に何か食べたいもの、ある?」
「スープとパン、いいね。ありがとう。果物が食べたい」
「昨日、市場で買ってたラズベリーがまだ残ってる」
「そうだよね。ラズベリー、新鮮なうちに食べよう」
慎重に言葉を選んでいるようでいながら、結局は、流れに任せて自然に喋っているだけのようでもあった。不思議と、自然に出て来る言葉がある。きっとそれが私なのだろう。彼女は思った。私は私のことをすべて忘れているけれど、体は覚えているのかもしれない。彼女の心配をよそに、会話は自然と運ばれてゆく。