彼が立ち上がったのにつられて、彼女も立ち上がろうとする。すると途端にくらりと目眩が襲い、すぐさましゃがみ込む。
「大丈夫?」
彼が言う。
「ずっと座っていたから。それに、ちょっと暑いからかな」
くらりとした瞬間、世界は一瞬ぐにゃりとして、あの暗闇が記憶の中に立ちのぼる。脇の下がじわっと汗ばむ。
「水分不足かもしれない。水筒の水、持って行ったよね?」
彼がそう言うのだから、きっと持って出たのだろう。ただ、今、手元にはなかった。森にゴミを捨てて来たというのもバツが悪いが、いたしかたない。
「持ち歩いて飲んでいたのだけど、森の中で落としてしまったみたい」
「そうか。無事に出て来れてよかったよ。どう、立てそう?」
足から膝へ、ゆっくりと力を移しながら立ち上がり、最後に頭をゆっくりともたげる。
「大丈夫」
彼の方を見て、彼女は微笑んだ。
彼がやって来て五分ぐらいだろうか。その間のやり取りで、彼女の中の空白には、少しだけ線が引かれ、色が塗られた。それだけでずいぶんと「私」が「私」らしくなってゆくようだった。何の確証もなく、声を出し、言葉を発した時の、掴まるものが何ひとつない真っ白で滑らかな世界は、そこにはもうすでになかった。
彼という人物がいることで、彼女という人物の輪郭がどんどん引かれてゆく。考えて、喋ることで、彼女の「私」が描かれてゆく。言葉がなく、微笑みあうだけであったとしても、何もない空間に点と点が現れて、線が結ばれてゆく。
「私」って、こんな感じだったのだろうか。
彼女にはまだ分からなかった。もっと分かったら、もっと納得するのかもしれない。でも、もっと分かったら、何かが損なわれてしまうようにも思えた。取り戻したいようにも思えたし、取り戻さないでいたいようにも思えた。
「家に帰ったら、少し横になるといいよ」
彼はそう言いながら自転車のハンドルに手をかけて、立ててあったスタンドを外した。
自転車を転がしながら歩く彼の横を、彼女は歩く。集落へ続く一本道はかなりデコボコしていて、そのデコボコが底の薄いスニーカーの向こう側にしっかりと感じられる。彼の自転車は新しくはないようだったが、丁寧に手入れがされていて、錆び付いた様子もなければ、タイヤが軋んだ音を立てることもなかった。
私たちは、きっと一緒に住んでいるのだろう。
彼女は推測した。家にある食べ物のこと、出かけた時の様子、彼はよく知っている。恋人なのか、夫婦なのか、その辺りは分からない。彼女の薬指にも、彼の薬指にも、指輪はなかった。結婚しているという証拠はないが、かといって、していないという証拠もない。
一本道の両脇には、森から続く木々が生い茂っていた。ここもまだ森の一部なのだ。きっと教会のあたりだけが、もとからぽっかりと拓けていて、集落から教会まで人々が通うために後からこの道がつくられたのだろう。木々は道の両脇までみっしりと生い茂り、ここがまだ森であることを強く主張している。
教会に通う曜日ではないのか、時間帯ではないのか、この道を通る人は他に誰もいなかった。鳥たちだけが、遠くから飛んで来て、木のてっぺんに留まり、小道を進むふたりを見つめていた。
何か話しかけようと思ったが、聞きたいことは、結局、聞いてはいけないことばかりだった。果たして記憶喪失なのだろうか?そのせいで忘れてしまっているのだろうか?そんな気もしたけれど、どこか違和感があった。
忘れてしまったのではない。
敢えて忘れているのだ。
忘れたくて、忘れている。
彼女はそう考えた。その方がしっくりする。
ではなぜ。なぜ忘れていたいのだろう。自転車を押して歩く彼の横顔を見てみる。この人と一緒に暮らしているのならば、この人が原因なのだろうか?その可能性もゼロではない。
朝起きて、髭を剃らないままだったのだろう。口のまわりと顎の辺りに無精髭が伸びている。彼女は観察を続けた。やさしい笑顔と人当たりのよさに安心して、このまま一緒に家に帰ってよいのだろうか?どれだけ見てみても、嫌な予感はしない。でも分からない。何も覚えていないのだから。
「髭、ちょっと伸ばしてもいいかなと思って。変かな?」
あまりにしげしげと見つめるから、髭を見ていると思ったのだろう。彼がそう言う。きっと数日前まではきれいに剃られていたのだ。髭のない彼の顔を想像してみる。精悍過ぎて、どこか嘘っぽいように感じる。本人もずっと伸ばしたいと思っていたのかもしれない。何となくそんな感じもする。何かが、誰かが、それを止めていたのかもしれない。
私か。
彼女はそう思った。理由はよくわからないけれど、無精髭が嫌いだったような、そんな気がしたのだ。嫌いだったというはっきりとした感覚が、どこかにあるように感じられた。でも、何故そんなに嫌いだったのだろう。今となっては謎でしかない。どこか嘘っぽくしていて欲しかったのだろうか?そうならば、私自身もどこか嘘っぽかったのかもしれない。彼女は思った。考えているうちに返事が遅れていることに気づく。
「似合ってると思うよ」
彼女は彼の目を見て、まっすぐに答えた。嘘がないことが彼にも伝わったのだろう。彼は少し驚いたような顔をして、彼女を見返した。やっぱり。私が嫌がっていたのだ。彼女は思う。
「そうか、よかった」
よかったと言って、彼はまっすぐ前を見直し、自転車を押しながら、しばらく何か考えているようだった。
そうこうしている内に、一本道は終わって、ふたりは森を後にした。森の出口のところには小さな川があって、石でできた小さな橋が架けられている。川は向かって右のどこかで森から流れ出てここへ至り、森の輪郭に沿って左へ流れ、その先でまたカーブを描いて集落の端を流れてゆくようだ。とても浅く、透明で、水がうねっていないところでは川底の石もくっきりと見えた。
その先のひらけた場所に集落があった。小高い丘に囲まれた小さな平地。レンガで出来た家々がぽつぽつと現れる。ほとんどの家が二階建てで、二階の窓辺には小さなポーチがあり、植木鉢の花々が彩っている。川を越えたところから、道には薄いオレンジ色のレンガ敷いてあった。家々の合間をくぐり抜けるように走る道はやはり狭く、自転車かスクーターが通り過ぎるのが精一杯だろう。
家のないところには、森から抜け出して来たかのような大きな木が、唐突に現れ、どっしりと生えていた。枝には小さな鳥の巣箱が取り付けられ、小さな鳥がそこから出たり入ったりしている。別の枝には木の板がぶら下げられていて、集落の中心へと向かう矢印の下に「中央広場」と書かれている。
沈黙が続いている。それはそれで心地よかった。何かを喋った方がよいのだろうかと彼女は考えたが、止めておくことにした。
「中央広場」の矢印が示す方向へ進んでゆく。家の合間のところどころに生えていた大きな木々はやがて姿を潜め、家々が隣り合ってひしめき合うようになる。一階を店舗にしている家が増え始め、野菜を売る店が目に入り、魚を売る店が目に入る。
もう日も傾きはじめている。朝にはきっともっと沢山の品々が並んでいたのだろう。残された品々は、それでもとても新鮮で、きらきらとしていた。魚はどこからやってくるのだろう?ここからは見えないけれど近くに海があるのだろうか。
しばらく進むとパン屋があって、彼はそこで自転車を止めた。彼女もあわせて歩みを止める。ガラスの向こうに並べられた、イチジク入りの大きな丸いパンがとても美味しそうだ。
「イチジクのパン、美味しそうだね」
「この間もそう言ってたね」
「うん、やっぱり美味しそう」
「じゃあ、これにしよう」
彼は店内に入るとイチジクのパンをひょいっと手にして、奥にいる女性のところへ持っていった。女性はニコニコしながら彼を迎えた。白髪まじりの髪の毛をきれいに結っている。