「こんにちは。今日は遅いのね」
「修理をしていたら時間が掛かってしまって」
「あら、何か壊れてしまったの?」
そう言いながらパン屋の女性は扉の辺りに立っている彼女の方を見て、にこりとした。彼女もあわせてにこりとする。
「トイレの排水です」
「水回りは困るわよね。あなたたちが住んでいる家も古いもの。中央広場の近くの角に、修理屋さんがあるじゃない?あそこに見てもらうといいわよ。パイプを交換してしまった方が早いかもしれない」
「そうですね。今度、相談してみます」
「ええ、そうしてみるといいわ」
私が森を彷徨っている間、彼はトイレの修理をしていたのだろうか。彼女は考えた。話しをしながらパン屋の女店主は手際良くパンを紙袋に入れ、彼に渡した。
「はいどうぞ。いつもありがとう」
「こちらこそ」
ふたりは微笑み合って、彼は店主にくるりと背を向け、彼女の方を見た。
その視線が、凍るような透明だったのだ。こころの奥まで見透かされたかのような気がして、彼女は立ちすくんだ。そして、こう思った。この人は、悲しんでいるのかもしれない。
それは一瞬のことだった。
「さあ、行こう」
そう言って彼女の肩にそっと手をやる彼の視線から、その冷たさはすでに消えていた。
「パン、私が持つよ」
「そう?」
彼女はパンの入った紙袋を両手で抱えるように持って、彼の横を歩く。オレンジ色のレンガの道は少し蛇行しながら続いて、やがて中央広場に至る。
広場の真ん中にはこじんまりとした噴水があって、中央の装飾された支柱のてっぺんから水は放たれて弧を描き、陽の光を受けて虹色に光りながら池へと帰ってゆく。池に溜まった水は、向かって右手の道の側溝を通って流れてゆく。よく見ると、向かって左側にある道の側溝からは水を引いているようだった。川から水を引いて、川へ返しているのかもしれない。
道は、中央広場を起点に四つに分かれているようだった。四本の道にはそれぞれ違った色のレンガが敷かれている。四色のレンガは、この広場で混ざり合って、ここそこに幾何学模様をつくっていた。その内の一色がだんだんと優勢になって、やがてここから走り出す道の色になってゆく。
噴水に架かった小さな虹を眺めながら歩く。広場のまわりには、カフェが三軒あって、店先の椅子に腰掛けて何かを飲みながら談笑する人たちが、それぞれ数組ずついる。老人たち、家族連れ、カップル。それぞれにコーヒーや、ワインや、何やらを飲みながら、笑ったり、じっと聞き入ったり、熱弁を振るったりしていた。
カフェの店先を見やりながら、川の水を引いている側溝沿いの道へと入ってゆく。この道にはウグイス色のレンガが敷かれていた。広場の近くには、花屋や雑貨店があったが、商店はすぐに姿を見せなくなり、住宅と思われる家々が連なるようになる。
そしてやがて、家々の隙間にまた、大きな木々が姿を見せるようになる。一本の木には、この先を指す矢印とともに「どんぐり山」、来た道を戻る方向を指す矢印とともに「中央広場」と書かれた木の板がぶら下がっていた。
矢印の木を過ぎてしばらくすると、右手に外壁が薄い橙色で塗られた、こじんまりした二階建ての建物が見えてくる。二階の窓は開いたままで、生成りのカーテンがひらひらと舞い出ていた。彼は玄関の横に自転車を立てかける。
「鍵、掛けないで出て来たから、開いてるよ」
そう言われて、彼女は扉の取っ手に手を掛けた。取っ手の上にあるレバーを親指で押すと、カチャっと音がして、少し重い木の扉が、ぎーっと音を立てて開いた。
玄関の右手には螺旋階段があって、二階に上れるようになっている。目の前には廊下が続いており、左手に扉が三つ見えるがどれも閉まっていた。突き当たりにある部屋の扉は開いていて、中が見える。果物とマグカップが置かれたテーブル、椅子が三脚、その向こうには大きな窓があった。
開いた窓の向こうには大きな木が生えていて、その向こうに畑が、そのさらに向こうに小さな丘のような山が見えた。やわらかな風が奥の部屋の窓から入って来て、玄関の扉を開いた彼女の両脇を吹き抜けて行った。
自転車を置いた彼が、後ろから入って来る。彼女はパンを抱えたまま、廊下を奥へ進む。
「トイレの修理、大変だったね」
パン屋での会話を思い出して、彼女は言う。
「トイレ?」
振り返ると、何のことかわからないといった表情の彼がそこにいた。
「トイレの修理したって、さっき言ってたじゃない」
彼の顔をまっすぐ見て、彼女は言う。
「トイレは壊れてないよ。修理もしてない」
彼はまた、凍ったような透明な眼差しで、彼女をじっと見据えてそう言った。彼女は立ちすくんだ。
混乱していた。トイレが壊れて修理をしたと、さっき彼はパン屋の女店主に言った。私の記憶がおかしいのだろうか。過去のことを思い出せない上に、十分前のことも記憶できないのか。それとも、この人が嘘をついているのか。そう考えている間も、彼は凍ったような透明な眼差しで、ずっとこちらを見続けている。
立ちすくむ彼女に、見つめ続ける彼が、一歩、また、一歩、近づいてくる。足がガクガクと震えている。凍ったような透明な眼差しが、自分の瞳に流れ込んで来るような気がする。目を閉じたい、けれど、閉じることができない。暗闇を抜け出した時の感覚が戻ってくる。イチジクのパンを抱える腕に力が入る。
これじゃ、ふかふかのパンがつぶれてしまう。
でも力を抜くことはできない。
目を閉じることも出来ない。
凍ったような透明な眼差しが、どんどん近づいて来て、彼が彼女に触れたのが先か、彼女が倒れ込んだのか先か、分からなかった。彼女は胸の前でパンをぎゅっと抱えたまま倒れ込み、彼は倒れゆく彼女を両手で抱きとめた。