頬に湿った何かを感じて、イゾルデは少しだけ目を覚ました。

木の根に守られて、思ったよりもぐっすりと眠っていたのだ。まだ朝ではないものの、暗闇は光を抑えきれず、隙間から朝の光が漏れはじめていた。新しい朝が来る。頬の先に目をやると、小さな鹿がそこにいて、イゾルデの顔に鼻先をあてていた。

驚いたのかもしれないし、驚かなかったのかもしれない。驚くべきことなのか、どうなのか、イゾルデにはよくわからなかった。仔鹿はどことなく神々しく、朝の光を浴びて、光を浴びた側をきらきらと輝かせていた。光の当たらない側は、薄暗いままに。

神聖さと獣性が、仔鹿という存在の中で同居している。けれど、それはふたつの異なる性質なのだろうか。神聖さにあって獣としての本能は損なわれるべきなのだろうか。湿った鼻先と生暖かい鼻息を頬に感じながら、イゾルデは思った。

目を開けて、イゾルデは仔鹿の目をじっと見た。

おはよう。朝だよ。

イゾルデがこころの中でそう言うと、仔鹿は鼻先を上げて、しばらくイゾルデの方をじっと見てから、踵を返しゆっくりと歩いていった。はじめはゆっくりと。やがて、しなやかに駆け出して、森の光と闇に消えていった。

頬に着いた粘液を手の甲で拭きながら、イゾルデは体を起こす。丸まって寝ていたせいか、体のあちこちが縮こまっている。けれど、土の柔らかさのせいか、痛いところもそれほどなかった。

仔鹿がいなくなってしまって、寂しく思っている自分に気がついた。けれど、朝が来て、目が覚めてしまったのだ。仔鹿は、眠っているイゾルデの傍らに、夜の従者としていてくれたのだ。夜が朝と交差する瞬間、夜の従者に出会うことをゆるされる。けれど、朝が来てしまったのならば、仔鹿は去らなければいけない。それが森の掟なのだ。

じっと見つめていた仔鹿の眼差しを思い出す。大きくて黒い瞳は、透明に、まっすぐに、すべてを映し出すように見えた。仔鹿は神なのだろうか。それとも獣なのだろうか。神であるようにも見えたし、どこまでも獣であるようにも見えた。きっとその両方なのだろう。では、私はどうなのだろう。私は獣なのだろうか。私に、仔鹿のような神聖さはあるのだろうか。

消えてゆく夜と、浮かんで来る朝の狭間で、イゾルデはそんなことを考えていた。子どもの頃から、朝と夜の狭間に答えはあるように、いつも思っていた。夜、夢の中で何かを教えてもらう。それをそのままそっと朝の向こうに持ってゆこうとする。そうしたら「答え」になるのだ。

でも、夜と朝の間にある峠を、その荷物を持って越えることはできなかった。かごが開いて幾千もの蝶たちが逃げてゆくように。カタチを成していたそれのカタチは、バラバラと失われてしまうのだ。そして。それがそこにあった感覚だけが残されて、朝が訪れる。

仔鹿以外のもっと沢山が、ここにいたのかもしれない。朝の光に、ひとつ、ふたつ、みっつと消えてゆき、仔鹿だけが、その好奇心ゆえに、目を覚ますイゾルデをひとり待っていたのかもしれない。蝶たちもここにあって、イゾルデの上に留っていたのかもしれない。

日が昇ってゆくにつれ、そんな考えは木々の合間から差し込んで来る陽光に呑まれていった。暗闇があって浮かび上がる光。夜があって動き出す生命たち。暗闇そのものが光であるように、それはそのまま生命であるのかもしれない。そうしたしるしは、闇において現れることをゆるされ、日において消されてゆく。狭間の時間を名残惜しく感じながら、イゾルデは立ち上がって伸びをした。

森は深いように見えたが、夜の間そんなに冷え込まなかったのか、不思議と体もあまり冷えてはいない。寝心地の悪さに節々が痛くなることもなく、むしろ爽快な眠りだった。木の根の合間で眠ったのに。さっきまで横たわっていた場所を見ながら、イゾルデは不思議に思った。

見上げると、空は木々の合間、葉と葉の合間に切り取られて、破片のようになって散らばっている。晴れるのか晴れないのか、まだ決めかねている空は、森に圧倒されて、その向こうにひっそりと佇んでいるように見えた。

もうひとつ不思議なのは、お腹があまり空かないことだった。昨日は一日中歩いたのに、昼間にビスケットを一枚かじっただけだ。ペットボトルにはまだ水がたっぷり入っている。飲み干した後、小川で補給したのだ。なくなったらまたどこかで汲めばいい。ここからは水の音は聞こえなくなってしまったけれど、きっと、どこかでまた、小川とめぐりあうだろう。イゾルデはそう確信していた。

自分の名前すら忘れ、森を彷徨っている。けれど、とても生きている。動いて、眠って、あまり食べずとも必要な力は湧いて来る。森の外のことは忘れてしまったけれど、その頃は、もっとずっしりと重く、何かを引きずるように暮らしていたような気がする。そんなぼんやりとした感覚が、イゾルデの中に残っていた。

イゾルデはまた、歩き出した。昨日来た獣道を、その先へ。小川沿いに歩いた方がよかったのかもしれない。川はやがて里に流れ出るはずだ。けれど、この獣道に呼ばれたのだ。森の深みへと入ってゆく道なき道。ただでさえ彷徨っているのに、こんな道に入ったらさらに迷ってしまう。そう考えながら、その考えの残音を聴きながら。イゾルデは、獣道へと迷わずに足を踏み入れていた。

小川からはだいぶ離れたようで、水の音もなく、森はただただ、どんどん深まってゆくようだった。木々は鬱蒼として、陽の光はその隙間からどうにかこうにか溢れるように射している。それでも、昼と夜とはまったく違うのだ。夜には夜の役割があって、昼には昼の役割がある。日が射すから、射さないから、ということではない。夜の役割が終わる時、その象徴として太陽が昇るのだ。

森から出ようとしているのか、森に入ってゆこうとしているのか、イゾルデにはよくわからなかった。気づいた時にすでに進んでいた、歩んでいた、その運動に従って、ゆっくりと歩き続けた。針葉樹林が続く。木々はぎっしりと生えていて、右を見ても、左を見ても、それ以外のものは何も見えない。動物たちはきっとどこかにいるのだろう。どこかに隠れて、イゾルデのことをじっと見ているのだろう。

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