鳥のさえずりが聴こえていた。窓の向こうに鳥がいるのだろう。ちちちちち、ちちちちち、二羽の鳥たちが可愛らしく鳴いている。
目を覚ましながら、最初に聴こえたのがそれだった。瞼は重く閉じたままで、その向こうにぼんやりとした光の予感はあって。とても弱い光。けれど、それにすら開くことはできなかった。眩し過ぎるのだ。見る準備はまだ整っていない。
彼女はそのまま、鳥たちのさえずりを聴いていた。ベッドに横たわっていて、タオルケットが掛けられている。靴と靴下とジーンズは脱がされていて、足と脚は、使い込んだタオルケットのやわらかな感触で包まれている。
鳥たちはまだ、窓のすぐ向こうでさえずっている。きっと、実がなった木がそこにあるのだろう。窓の外に鉢植えが置いてあるのかもしれない。ちちちちち、ちちちちち。その音だけが静かな部屋に聴こえていた。
足音。階段を上って、こちらへと近づいて来る。きっと彼が様子を見に来たのだ。ギーっと音を立てて、寝室のドアが開く。スープの香りがする。そうだ、食べようと言っていたトマトのスープ。ちちちちち、ちちちちち、と鳥が鳴き。スープの香りが漂っている。タオルケットに包まれて。
ふわりとその安らぎに落ちてゆこうとしたその時、彼に対する疑いの気持ちが脳裏を過った。そうだ、彼を疑ったのだ。そして、暗闇に捕らえられた。
話しが噛み合なかった。それが原因だったのだろうか?彼が誰だか思い出せないからなのだろう。けれど、それが原因なのだろうか?旅先でふと出会った見知らぬ人を、信じるのか、信じないのか。そんな瞬間があるように。今、この人を信じるのか、信じないのか。そうやって決めたっていいはずだ。
そう思うと、疑いはひたすら、私から生じて、私だけを煙らせ、私だけを窒息させているのかもしれない。彼女はそう思った。信じることは、いつだって可能なのだ。そして、信じないことも、いつだって可能だ。
どれだけの情報があるのか、ないのか、ということは、そのことと密接に繋がっているようでいて、実はまったく関係ないのかもしれない。信じるのか、信じないのか。その選択がまずあって、世界は後から描かれてゆくのかもしれない。
そう思いながら、彼女はまだ、瞼を閉じたままでいた。信じるのか、信じないのか。決めきれないままに瞼を開いてしまうと、それが、そのまま、世界になってしまう。そんな風に感じた。だから、決められない間は、このまま閉じておこう。
「よく眠れた?」
瞼の下で瞳が右へ左へ動いているのが見えたのだろう、彼はこう言った。
「うん。どのぐらい眠っていたの?」
「三時間ぐらいかな。教会のところでも立ち眩みしてたし、まだ疲れているんだよ。このままゆっくりして、また眠ったらいい。スープ、持って来たよ」
「ありがとう。でも、目が開けられないの」
瞼は開かないことに決めたのだ。
「目が痛いの?」
「痛くはない。でも、開けると眩し過ぎると思う。そうしたらまた目眩がしそうで。今は閉じているのがちょうどいいみたい」
「そう。体、少しだけ起こせる?スープ、少しだけでも飲んだ方がいいと思う」
体を起こそうとすると、頭がズキズキした。ゆっくりゆっくり。頭痛と折り合いをつけながら、体を起こす。その間に彼は、ベッドの近くに椅子を持って来たようで、スープ皿を持ってそこに座り、スープをすくったスプーンをそっと彼女の口のところまで持って来た。
「熱くない?」
「うん、大丈夫」
傾けられたスプーンから少しずつ口の中へと注がれるトマトのスープは、とてもやさしい味がした。スパイスがほんのりと効いていて、深く、あたたかい味だ。目を瞑ったままの彼女の口の中で、彼がつくったスープの味が広がってゆく。
「美味しい」
「そう?よかった」
こうして聴いていると、彼の声は、今、包まれている、このタオルケットの肌触りに似ていた。ずっとずっと昔から聴いていた声。ずっとずっと昔からここにあった声。起毛のひとつひとつが感じられるように、声の粒のひとつひとつが感じられ、それぞれが違う想いを孕んでいるように感じられた。淡々としているようで、そこには想いの海が広がっていた。タオルケットのように。そして、悲しみがあるように見えた。深い悲しみ。彼女に対する悲しみ。
この人が私を傷つけたのではない。
私がこの人を傷つけたんだ。
彼女は知った。はっきりと。
私は何をしたのだろう?
一体、何をしたのだろう?
彼はすべてを知っていて、すべてを知っているだろう私に、敢えて何も言わないでいるのだ。彼の悲しみは罪悪感とともにあって、まるで春の海のように凪いで見えるそのところどころに、深い海溝があるようだった。
私が何かをした。
彼はそのことで自分を責めている。
口に運ばれたスープは温かく、空っぽの胃に落ちてゆくその通り道のすべてを温めてくれた。スープが温かいほどに。彼の声に潜んだ悲しみが、立てられた爪のように彼女の皮膚に食い込む。突然に何かを思い出すようなことはなく、ただ、その悲しみの原因に、きっと彼女にあるのだろうその原因に想いを巡らす内に、倒れる前にあった疑いの感触が、彼女のこころに広がっていった。
漆黒のタールのように。真っ黒で、どろっとして、どこまでも引っ張ってゆくように重い。それは、教会に立ちこめたあの暗闇と同じ匂いをしていた。錆びた鉄のような匂い。鋭さが売りだったはずなのに、その鋭さすら損なわれて、朽ち果てながら、けれど土に溶けることもできない、錆びた鉄。
彼女は、教会の不思議な小部屋に横たわっていた女性を思い出していた。そこに流された血を思い出していた。錆びた鉄のような匂い。それは、暗闇の匂いであって、あの血の匂いでもあったのかもしれない。
一体、誰だったのだろう?
私と同じような背格好の女性。
流された血は、私の血だったのかもしれない。
彼女は、どこかで思い出し始めていたのかもしれないし、それは新たに浮かんだ考えだったのかもしれない。けれど、それらに違いはあるのだろうか?思い出すことと、新たに思いつくことと。それらは果たして違うのだろうか。私たちは、すべてを新たに思いついているのかもしれないし、すべてを思い出しているだけなのかもしれない。
「これで最後だよ」
最後のひとすくいを口に運びながら、彼が言った。思いのほか空腹だったようで、あっという間にすべて平らげたようだ。暗闇と、疑いと、血と。そうしたことを思うほどに、体を流れてゆく温かなスープがスローモーションで感じられる。死んでゆくことの反対側に、生きることを感じているようだった。
いや、死んでゆくのとはきっと違うのだろう。その時が来て、生命の灯りが消えるのであれば、そこにはきっと、もっともっと明るい光があって。その光にその灯りが溶けて、ただただ見えなくなるのではないのだろうか。灯りが暗闇に呑まれてゆくのは、それとは違う光景であるように見えた。灯りを灯せなくなってしまうこと。そして、結果として広がってゆく黒。
「食欲はあるみたい、よかった」
カチャっと音がして、スプーンが空のスープ皿に置かれたのが分かった。彼女の瞼は、まだ降ろされたままだった。しばらくこのまま閉じておこう。彼女はそう思った。
「少し横になるといいよ。旅行の時に使ってるアイマスク、持ってこようか?」
彼女は起こしていた体を横たえ、タオルケットにくるまりながら
「ううん、大丈夫。目を閉じてるだけでいい」
と言った。