きっと外は夕暮れ時なのだろう。窓の方向に橙色の光がうっすらと感じられた。その光のある方に、ちちちちち、ちちちちちと鳴く二羽の鳥たちがまた舞い戻って来た。
瞼の中に広がる夕焼けの橙色は、とても平和で温かかった。彼がつくってくれたトマトスープのおかげで、体の中も温かく、柔らかなタオルケットに包まれて、橙色の光がいっぱいになりながら、このままずっとこの柔らかさと光とともにいられたら、と彼女は願った。
それでも何かが怖くて、その怖さゆえ、瞼を開けることができなかった。開けてしまったら、この願いすら嘘だったことが、暴かれてしまうかもしれない。閉じた瞼で、その内側の橙色の平和を必死に守っているかのようだった。漆黒の闇から。いつどこからやって来るとも知れない、あの闇から。
ことっと音がした。きっとスープ皿をサイドテーブルか何かに置いたのだろう。そして彼の手のひらが伸びてきて、彼女の額を覆った。
「熱はないみたいだ」
手のひらは額をすっと離れて、指先は彼女の左側の眉毛をそっと撫で、そして、おおきな手のひらが左の頬をそっと覆った。
彼女は、タオルケットにしまっていた左手を伸ばし、彼の手の甲の上にそっと添えた。大きくてしっかりした手は、やはりどこか悲しそうだった。
「ごめんね」
彼女は言った。何に対して謝っているのか分からなかった。でもきっと、私がこの人を悲しませている。この人はきっとひとり、何もできずに、何もできない自分を責めていたのだろう。そして、だから何も言わずに、温かいスープを煮込んで、そっと運んでくれるのだ。彼女はそう思った。
彼の手のひらは一瞬強ばって、しばらくそうして強ばっていて、それからまた柔らかくなって、彼女の頬を包んだ。さっきよりも柔らかくなったようだった。彼女は添えていた手をまたタオルケットの中に戻した。
結局、何も思い出せない。彼の名前も、自分の名前も、何があったのかも。でも、悲しみと罪悪感があり、灯りがあって闇があり、灯そうとする力と呑み込んでゆく力があって、無力感とどうにかして差し出そうとする手があった。
過去の記憶はなくても、そうしたことたちは、ただただ純然としてそこにあって、そこにはひとつの嘘もなかった。目を瞑った世界には、嘘はひとつもなく。何かを思い出す必要なんて、もしかしたらひとつもないのではないだろうか。彼女は静かに思っていた。
「お茶か何か飲む?カモミールティーいれようか?」
頬に手を当てたまま、彼が言う。
「うん、ありがとう」
彼女の答えを聞いて、彼は手のひらを裏返し、指先でやさしく頬を撫でてから、その手を放した。椅子から立ち上がる音、空のスープ皿を手に取る音、扉が開く音、階段を下りる音。そして、彼の音が一階へと消えてゆく。
ちちちちち、ちちちちち。鳥たちは改めて囁いて、そして、飛び立って行った。橙色は少しずつ、でも確実に、夜へと溶けてゆこうとしているようだ。鳥たちも住処へ帰るのだろう。
目が覚めたばかりなのに、もう夕方で、それでも今晩もきっとぐっすり眠れるはずだ。教会での出来事が、予想以上に応えているのだ。呑み込まれそうになったあの暗闇の欠片たちが、まだここそこにあって、息を潜めているのかもしれない。そして、ふとした隙間から広がって、私の両腕を掴もうとするのだ。さっき倒れた時みたいに。私が疑ったその疑いが隙間になって、そこから黒を広げてゆくのだ。目を瞑ったまま、彼女は思った。
目を開くのなら。きっと決着をつけなければいけないのだろう。それまでは、目を瞑ったままでいよう。そうすれば守られるから。
瞳を開いたその先の世界は、私の責任において在るのだ。
そして、その世界こそが、私を呑み込もうとしている。
彼女は頭の中で何度も繰り返した。
とんとんとんと足音がして、カタンと扉が閉まった。彼女は、またゆっくりと体を起こした。頭痛は和らいできている。
彼女が上半身を起こすと、彼は彼女の右手を持ち上げて、そこにマグカップを運んだ。
「熱いから気をつけて」
右手の指先にマグカップの取っ手があてられて、それを頼りにぎゅっと握る。ざらっとした手触りのマグカップだ。左手を器に少しだけあてて、器の形を探ってみる。ちょっと歪な形をした、おおきなマグカップだった。誰かの手作りなのだろうか。もしかしたら、自分でつくったのかもしれない。彼女は思った。その歪な形に、彼女はどこか安心した。記憶は曖昧で、思い出せることは何もない。ひとつひとつ、今、感じることだけが頼りだ。
「ありがとう」
鼻の下にカップを運ぶと、カモミールの香りが湯気とともにふわっと広がる。口をつけると、まだ熱過ぎて、少しだけすすってから、カップをお腹の辺りに降ろす。外はどんどん薄暗くなっていて、橙色の光は消えかけていた。
夜になるのは、少しも怖くなかった。夜とあの暗闇とはまったく違う。暗いということだけで括るのは、見当違いだ。夜には夜の光がある。見えない光が、夜に棲んでいる。太陽が去って、その光を月が受け継ぐように。反射され、転写された光が、そこにはあって光っている。
「また眠れそう?」
「うん。思っていたより疲れていたんだと思う」
「眠れるのならその方がいい。そのまま朝までぐっすり寝てしまうといいよ」
森で再会したあの時よりも、彼には事情が伝わっているように感じた。お互いに何も聞かないし、何も答えない。けれど、何かがあったのだということを、彼と彼女のそれぞれが知っていた。彼が知っていること。彼女が知っていること。それらは違っていて、どちらもすべては知らない。でも、彼は彼女に何かがあったのだと分かっていて、彼女も彼に何かがあったのだと分かっていた。
「僕はソファで寝ようか?」
「一緒に寝よう」
言葉が先にあって、驚きは後から着いて来た。言葉は、落ち着いて、確信していた。ためらわずに一緒に寝ようと思っている自分自身に、彼女は驚いていた。倒れ込む前に感じた疑いが完全に消え去ったわけではないと分かっている。でも、目を瞑っていることが彼女を助けていた。そして、夜になってゆく世界が彼女を助けていた。
よく見えない、ぼんやりとした世界にあって、彼の声と手の感触だけに触れていれば、惑うことはない。倒れる前、彼の悲しみに、私は惑ったのだろう。彼女は思った。悲しみが悲しみであることを認めたくなかったのだ。それが何らかの策略であってくれた方が、それを疑ってみることの方が、きっと気が楽だったのだ。
カモミールティーは程よい温度になって、彼女は両手でカップを持って飲んだ。トマトスープが通った道を、温かなカモミールティーが通ってゆく。
「シャワーを浴びて、着替えてくる。飲み終わったら、カップをここに置いておいて」
彼は立ち上がりながらそう言って、彼女の右手を取って、自分が座っていた椅子のところへ持って行った。
「うん、わかった」
ぎーっと扉が開く音がして、とんとんとんとんと彼が階段を下りてゆく。