彼女はゆっくり、ゆっくり、カモミールティーを飲んだ。目を開けることなど、もうすっかりと忘れてしまったかのように、両目を閉じたまま。映像のない世界に、彼女は安らぎを覚えていた。飲み終わったカップを椅子に置いて、またタオルケットに包まる。
鳥たちは去って、日もすっかり暮れたようだ。部屋の中にちらちらとした灯りがある。きっと、彼がロウソクを灯したのだろう。その揺れる灯りが瞼の向こうに感じられる。静かだった。時折、家の前の通りを歩く人の足音と話し声が聞こえたけれど、それもすぐに夜に消えていった。
いつでも眠れそうだったけれど、まだ起きていてもいい。彼女は思った。ゆらゆらと揺れるロウソクの灯りが部屋中に広がって、心地よかった。灯りは大きくなったり、小さくなったりしながら、まるで生きているかのようにそこにあった。
とんとんとんとんと音がする。彼が戻って来たようだ。ぎーっとドアが開いて、石けんの香りが空気とともに部屋に入ってくる。突然、ロウソクが消えて、煤の匂いが部屋中に広がる。彼が吹き消したのだろう。窓の向こうは少しだけ明るかった。月明かりなのか、隣家の灯りなのかは分からない。
窓の方を向いて横になっている彼女の背後から、彼がベッドに入って来る。彼女は少しだけ緊張した。そして、すぐに安心した。頭で考える以上に、体は何かを覚えているようだった。
「石けんのいい匂い」
彼女が言う。
「起きてたの?」
「まだそんなに眠くない」
彼は、彼女の背中にぴたりとくっついて、お腹の辺りに腕をまわした。背中に感じる彼の胸とお腹が温かい。少し熱いくらいだ。きっといつもこうやって、一緒にこのベッドで寝ていたのだろう。タオルケットは、彼にも彼女にも同じようにやさしく、馴染んでいるようだった。
ずっとこうしていたようでもあり、初めてこうしているようでもあった。ひとつひとつの感覚は摘んだばかりの果実のように新鮮で、でもどれもが同じように懐かしかった。この新鮮さに含まれている世界には、きっとあの暗闇は近づくことができないはずだ。
記憶を失くしたと伝えたら、彼はもっと悲しむのだろうか?
自分のことが忘れられてしまったと知ったら。
きっとそうなのかもしれない。だからきっと、私は彼に何も言わないのだろう。彼女はそう考えた。でも、そんな埃まみれの古い記憶の束よりも、私は、今ここに、彼の感覚をひとつひとつ摘んでいる。新鮮に。きっと、これまで以上に、鮮明に。
そのことの方が、ずっとずっと大きな意味を持っているように、彼女は感じていた。そこには大きなよろこびがあって、そして、小さな灯りが灯り始めていた。新しく出会う感覚のみずみずしさにあって、失くしてしまった古い記憶の束を惜しむ気持ちは、薄れてゆくばかりだった。
「無事戻って来て、よかった」
彼はそう言って、絡めた右手で彼女を抱き寄せた。きつ過ぎるほどの力が、彼がどれだけ心配していたのかを彼女に伝えた。言葉の最後の方が少しかすれていた。彼は泣いているのかもしれない。何も聴こえてはこないけれど、背中にあてられた彼の胸は張りつめているように感じられた。
戻ってこないかもしれない。彼はそう思っていたのだろう。そして、戻らないつもりで、私はきっと森に入ったのだ。彼がそう信じるだけの何かはすでに起こっていた。そして、森があって、森に消えた私がいた。彼の腕の力を感じるほどに、彼女はそう確信していった。
具体的なことは相変わらず思い出せなかった。けれど、森に入ろうとする前にあったであろう気持ちの、残像のようなものを捕まえることはできた。暗闇があって、それを覗いていた私がいた。覗けば覗くほど、目をそらすことができなくなって、引きずられるように覗き続ける私がいた。彼女は漠然とした感覚の記憶を思い出していた。
目を開く前に。もう一度、「あの」教会に行く必要がある。あの建物に戻るということではない。あの女性が横たわっていた、「あの」教会に、独りで、行かなければいけない。そこにあるものを、もう一度しっかりと見なければいけない。
ぎゅっと目を瞑って、彼女はそう考えていた。こうして彼が傍にいてくれる安らぎはあって。でも、向き合わなければいけないそれは、それとしてあるのだ。
背中の向こうの彼も、まだ眠ってはいないようだ。静かな呼吸は、意識されて整えられているようだった。彼女にも考えなければいけないことは同じだけあって、けれど、昼間の疲れが、満ちる潮のように足もとから少しずつ彼女を捕らえていった。
目を瞑ったまま思いを巡らす彼の腕の中で、彼女は眠りに落ちていった。