森の茂みに守られた水はひんやりとして、イゾルデの火照った両足を冷やしてゆく。熱が抜けてゆく心地さに、イゾルデは身を委ねる。小川の中に立ったまま、半分残ったペットボトルの水を飲み干した。それから、透明な流れの中に空のペットボトルを入れ、ごぼごぼとそれを満たす。そしてまた、半分を飲んで、半分を残す。

両足から熱が抜けてゆくほどに、上半身と頭部の火照りがくっきりする。イゾルデは、岸に上がって、ジーンズとTシャツを脱いで、靴と靴下の上に無造作に置いた。それからまた流れに戻って、下着姿のまま、お尻をつけて腰から肩、頭の順に流れの中に横たえ、最後にお尻を持ち上げて両脚を水に浮かべた。

流れはゆっくりとしていたが、それでもただ浮かんでいれば下流へ流されてゆく。体を浮かべ、目は開いたまま木々と空を見つめ、流れに身を委ねて少しだけ下流に流されてから、イゾルデは川底に両足とお尻を着いて流れる体を止め、そのままそこに座った。それから、両手を川底に着いて、背中を反らせ、焼けるように熱い頭を川の流れへと浸した。

後頭部から額までを水に浸し、開いたままの両目で空を見上げる。木々は両岸から枝を伸ばし、川の上で手を繋ぐようにして空中を覆っている。それでも、森の中よりも空を見ることができた。木々は相変わらずざわざわと風に揺れて、ごおごおと音を立てながら、カタチを変え続けている。雲は白から灰色へとその色を変えていた。

頭からつま先へ小川の流れを感じながら、イゾルデは体の全体から熱が抜けてゆくのを見つめていた。水の流れる音と木々の揺れる音は混ざり合って、辺り一帯が激しく生きているようだった。ぽつん、と顔に雫が当たる。しばらくして、またぽつんと雫が落ちてくる。空は濃い灰色の雲に覆われ始める。雨が降り出したのだ。

イゾルデは急いで体を起こしてから、川の中を一歩二歩と歩き、川岸へあがった。Tシャツで体の全体をざっと拭いてから、ジーンズを穿いて、濡れたTシャツを着る。着けたままだった下着はびしょ濡れで、ジーンズとTシャツはあっという間に湿ってしまった。

風はますます強くなっている。雨脚は強まってゆくのだろう。靴下をはいてから、急いで靴を履き、靴ひもを縛る。急いで縛ったせいでリボンの形はかなり崩れていた。仕方ない。ナップサックにペットボトルを入れてから左肩に掛け、川岸を後にして、木陰に身を寄せる。

雨はどんどん激しくなり、木陰に入っても、右から左から水を含んだ風が吹いてくる。雨というより、木々から滴り落ちる水が風に舞っているようだった。いずれにせよ、雨を凌げないということには変わりない。体はまだ少しだけ熱を帯びていて、今となってはそれがせめてもの救いだった。気温も下がっているようだが、水に冷やされても寒さを感じることはなかった。

それにしても、このままここでびしょ濡れになっているわけにもいかない。そう思ってふと顔を上げると、朝の仔鹿が、雨に濡れながら獣道の辺りに立っているのが見えた。もしくは朝の仔鹿ではないのかもしれない。何れにせよ、イゾルデには朝の仔鹿に見えたのだ。首をまっすぐに伸ばし、黒くおおきな瞳はイゾルデの方を向いている。

「そんなところにいると、濡れちゃうよ」

イゾルデは思わず声を挙げる。仔鹿は少しだけ歩いて、また、イゾルデの方を見た。

「濡れないところに帰った方がいいよ」

イゾルデがそう言うと、仔鹿はまた少し森の中を進んで、また歩みを止め、イゾルデの方を見た。

どこかへ連れていってくれようとしているのかもしれない。

イゾルデはそう感じる。雨に濡れながら、仔鹿の方へ近づいてみる。仔鹿は少し待ってから、駆けるように森の中へと入ってゆき、木々の合間でイゾルデの方を見つめた。獣道から逸れてゆく道無き道をイゾルデは仔鹿を追いかけて進む。

風に煽られた雨雫が、右から左から吹き込んでくる。風雨が酷く、あたりの景色はほとんど見えない。足もとは不安定で、ところどころぬかるんで、ところどころに木の根が張り出していた。仔鹿を見失わないように前を見ながら、イゾルデはゆっくりと歩いた。仔鹿は、イゾルデが後を着いてくるのをしっかりと見守っていた。

そうやって、少しずつ進む仔鹿を追いかけながら進んでゆくと、大きな木の根元に辿り着いた。仔鹿は、後を追いかけてくるイゾルデの方を見ながら、そこにじっと立っていた。根元近くに人がひとり入れるくらいの大きさの洞がある。

「ここに案内してくれたの?」

仔鹿は何も言わずに、じっとイゾルデの方を見ていた。

「ありがとう」

イゾルデがそう言い終えるか終えないか、その時、とてもとても大きな風が右の方からざーっと吹き付けて、雨の雫と木の葉とともに一斉に吹き抜けていった。イゾルデは思わず目を瞑り、風に吹き飛ばされそうになりながら、どうにかして踏ん張った。しばらくの間、強い風は続き、イゾルデはナップサックを両手で抱きかかえて屈み、目を瞑り続けた。

ふと風が弱まって、体を上げ、目を開くと、仔鹿はもういなかった。洞のある木だけが、そこに堂々と立っていた。

イゾルデはもう一度「ありがとう」と声に出していった。声は、雨の音と風の音にすぐに掻き消された。

足早に近づいて洞の中に入ってみると、内側は思いの外広く、人が二人屈めるほどの広さがあった。中はとても静かだった。上の方に小さな穴が空いていて、うっすらと光が射し込んでいる。風が反対側から吹いているせいで、洞の入口から雨が吹き付けることはない。イゾルデは少しだけ湿った地面に腰を下ろす。

狭く薄暗い空間。子どもの頃に似たような経験をしたことがあるような、そんな気がする。懐かしい感覚と、雨を凌げてほっとした気持ちとが押し寄せて、背中を洞の内に預けたイゾルデの体から力が抜けてゆく。体の表面はさすがに冷え始めていたが、内側にはまだ昼間の太陽の熱が籠っていた。全身がびしょ濡れなのも気にならなかった。雨水によって森とつながっている。そんなことすら感じていた。

風はごおごおと音を立て続け、雨も弱まる気配はなかった。仔鹿は無事に自分の居場所に帰れたのだろうか。あまりに激しい風雨に、イゾルデは仔鹿の身を案じた。

仔鹿はずっと、私がどこにいるのか知っていたのだろうか。離れたところから静かに見守り、何もせず、そして、どうしようもなくなった時、姿を現して、何も言わないままに私を導いてくれたのだろうか。森に棲む者でありながら、私という存在への好奇心によって、好奇心と言う名の愛によって、私のもとへと降りて来たのだろうか?

雨風は嵐と呼べるほどに激しくなって、あたりはどんどん暗くなっていった。けれど、上の方にぽっかりと空いた穴からは、不思議と光が射し込んでいる。外は真っ暗なのに。

あの光はどこから来るのだろうか。

そう思いながら、見上げる。射し込む光を見上げながら、イゾルデは懐かしい感覚を覚えていた。暗がりの中、射し込む光を見上げる。どこかで同じことをしたことがある気がする。嵐はさらに酷くなって、外が暗くなればなるほど、射し込む光は眩しくなるように見える。何が光源なのだろう。そう考えながら、イゾルデは光を見つめ続けた。

光が広がって洞の内を満たしたのかもしれない。

もしくは、イゾルデがその光の中へ入って行ったのかもしれない。

あたりは真っ白になった。

>>> 第5章おわり・第6章へ