彼女は立っていた。真っ白なワンピースを着て。いつベッドから出たのか覚えていない。いつ着替えたのかも分からない。ベッドに横たわって静かに寝息を立てる彼が見える。

目を開いてしまったのだ。あんなに瞑っていようと決めたのに。どれだけ強く誓ったって、眠りに落ちたら忘れてしまう。そのことが何だか可笑しくて、彼女は声を立てずに笑った。最初は皮肉っぽく。けれど、いつの間にか何だかうれしくなっていた。

私たちの誓いなんて、無力なんだ。

だとしたら、呪いだって、きっと無力なはずだ。

彼はすっかり寝入っているようで、彼女がベッドから抜け出したことにも気づいていないようだった。

行かなければいけない。

今だ。きっと、今なんだ。

彼女は足音を立てないようにそっと歩いて、扉を開いた。ぎーっと音がする。彼の方を振り返る。さっきと変わらず寝息を立てている。大丈夫。ぎりぎり通り抜けられるだけ扉を開いて、その隙間をすり抜ける。扉は開いたままにしておこう。閉じるのにまた音を立てたら、今度こそ彼が起きてしまうかもしれない。彼女はそう考える。

そっと、そっと、階段を下りる。建物は古く、ところどころで、みしっ、みしっ、と音を立ててしまう。しばらく動きを止めて、耳を澄ます。彼が起きてくる様子はない。

一階まで降りると、そのまままっすぐ玄関へ向かう。見渡しても、彼女が履いていた靴はそこにはなかった。彼が寝室で脱がせて、ベッドの側に置いたのかもしれない。引き返そうかと考えるが、止めておいたほうが懸命だと思い直す。他に靴はないだろうか?ここに住んでいるのなら他の靴もあるはずだ。

そう思って、靴棚を静かに開いてみたが、そこには彼の靴しか見当たらなかった。ところどころに隙間があって、彼女の靴はきっとそこにあったのだろう。どこか別の場所に仕舞われているのだ。こうやって抜け出すことを、彼は予測していたのかもしれない。こうやって抜け出したことが、もしかしたら、あったのかもしれない。

そうやってわたしは森に迷い込んだのだろうか?

夜、抜け出して、暗闇の森に入って行ったのだろうか?

玄関の扉の内鍵を静かに開けて、裸足のまま外に出る。靴がないのなら仕方ない。このまま行くしかない。うぐいす色のレンガの道へ出る。森からここまでの道のりはしっかりと覚えていた。記憶の倉庫がほとんど空っぽなせいか、仕舞ったばかりの新しい記憶が見つけやすいのだ。通り過ぎた家、木々、店舗、分岐点、広場、どの記憶も鮮明だった。

敷き詰められたレンガとレンガの隙間や段差につま先をぶつけないように、一歩一歩足をしっかりあげて歩く。レンガはざらざらしていて、ところどころ雑に敷かれており、歩き心地は決してよくなかった。

通りには誰もいない。そのままためらわずに歩き続ける。

中央広場に出ると、昼間賑わっていたカフェも、扉と窓をぴたりと閉ざし、物音ひとつ立てなかった。どの家の住人たちもすっかり寝静まっているようで、音が一切しない。野良猫も、ネズミもいないのだろうか。静か過ぎるくらい静かだ。

毎晩こうなのだろうか?

彼女は不思議に思った。あまりに静か過ぎるのだ。静けさが音を吸い込んでいるのかもしれない。彼女が歩く音も、彼女の息づかいも、静寂に吸い込まれて消えていった。完璧な静けさが街を覆っている。不思議なくらいだった。

月は半分だけ顔を出している。街灯は少なく、ほんのりとした月明かりだけが頼りだった。中央広場を後にして裸足のまま歩き続け、集落を抜けてゆく。レンガの道が終わって、小川に架かる橋に出る。そこから森の木々に両脇を覆われた教会への細い一本道が続く。月明かりが木々の隙間からかろうじて細い道を照らしている。ロウソクを持ってくればよかった。そう思ったが、もう引き返せない。彼女は、暗闇に溶けてぼんやりとしたその道へ入っていった。

静寂に突如風が起こり、森がざわざわと音を立てはじめる。音はやがてごおごおと響き渡って森の奥の方へと広がっていった。彼女が足を踏み入れたことを、森のこちらが、森のあちらへ伝えているのだろうか。その知らせはリレーされて、森の隅々まで届けられているようだった。

彼女は怖れなかった。暗闇は深く、頼りない月明かりだけがともにあった。けれど、森に入っていくという意思は揺れなかった。一歩一歩、裸足の足が森の道の土を踏みしめる。自転車の轍にデコボコした道。ところどころがぬかるんで、彼女の足はあっという間に泥まみれになった。ぬかるみはどこか心地よかった。生暖かく、柔らかく、足を包む泥。その一瞬一瞬、彼女は森に愛されているような気持ちになった。

木々は相変わらずごおごおと音を立てる。風は、彼女の髪とワンピースをひらひらと揺らす。白いワンピースが月明かりにほんのりと浮かび上がる。道は教会へと向かってゆく。

ホオホオとフクロウの鳴く声がした。森に入ってから、辺りは生き返ったかのように音を立て動き始めていた。街はすっかりと眠っていて、森だけが起きている。夜はそんな時間なのだ。

足はどんどん泥まみれになり、跳ね上がった泥が白いワンピースを汚した。彼女は気にしなかった。ただただ、まっすぐに歩いていった。ごおごおと音を立てる森に包まれながら。

道はやがて教会に達する。教会も彼女のワンピースのように、その白を月明かりにほんのりと浮かび上がらせている。そこには、あの時と同じアーチ型の入口があった。

扉はない。入口は開いている。

教会の前で彼女はしばらく佇んだ。入っていく自分は決まっていて。それでも、呼吸を整える必要があった。吸って、吐いて、吸って。呼吸が浅くならにように、ならないように、出来るだけ整える。ちゃんと見なければいけない。心ここに在らずではいけない。ちゃんと在らなければいけないのだ。

深呼吸を繰り返してから、彼女は足を踏み出した。一歩、また、一歩。大きく開かれた口のようなアーチ型の入口の前に立って、そして、呑み込まれるように中へ入ってゆく。月明かりは、教会の中で増幅しているかのようだった。月明かりだけとは思えないほどにほんのりと明るかった。

「あの」教会だった。まん中に螺旋階段があって、四角いロフトがある。戻ってきたのだ。置かれた三脚の椅子の横を通り抜け、部屋の中央に向かう。進むほどに月の明かりが強くなってゆくように感じる。辺りはくっきりとその様相を示し始めた。ごおごお、ごおごおと、森の音が聞こえている。

中央の螺旋階段に辿り着く。最初の一段に足を掛ける。一段、一段、泥だらけの足で上ってゆく。逃げ出したい気持ちと、吸い込まれてゆく感覚は混ざり合って、不思議な引力をつくり出していた。そして、結局は吸い込まれていった。

足は震えることなく、先へ進んで行った。彼女のアタマだけが心配事をリストアップしていた。でも、そのすべてはすべからく無視された。すべては起こるべくして起こっていて、その流れを止める術はなかった。

階段の上の小部屋に辿り着く。そこは空だった。誰もいなかった。あの女性の死体もなかった。森のごおごおという音だけが、外から聴こえてくる。彼女には何をすべきかわかっていた。

その女性がいたところまで歩いていって、彼女はそこに横たわる。

あの時のあの女性と同じワンピースを着ている。足だってまったく同じように汚れている。初めてそう気づいたふりをした。ここへ来ると決めた時からずっと知っていたのに。

横になって目を閉じる。森の音がごおごおとしている。彼がつくってくれたトマトのスープを思い出していた。彼女を抱きしめる彼の温度を思い出していた。そこにあって、生きていた。大切な人と、やさしい味と、あたたかな体温と。そして。そのすべてに絶望していた。

何故だったのだろう?

横たわりながら彼女は思った。何故、分からなくなっていたのだろう。何故、見失っていたのだろう。いったい何を見ていたのだろう。いったい何に絶望していたのだろう。

ごめんなさい。

閉じた瞳から涙がこぼれる。

ありがとう。

閉じた瞳から涙がこぼれる。

本当に。

ありがとう。

瞼はどんどん重くなってゆく。

あの女性のように、私の体から血が流れるのだろうか?

彼女にはわからない。足に着いた泥の感覚も、次第に薄れてゆく。このまま眠るんだ。そのことだけを知っていた。

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