それは一瞬のことだった。真っ白になった世界は、あっという間に色彩を取り戻してゆく。昼間の石の上での出来事が再生しているかのようだった。

色が戻って、世界が広がっていく。音が戻ってくる。香りが戻ってくる。洞の内側の湿った木と土の香りがあった。ぬかるんだ土に座っている感覚があった。草木の香りが届けられる。土の香り。雨上がりの香りがする。

外を見てみると嵐は過ぎ去っていた。雲はところどころに千切れたように残されながら、空はきれいな青を見せていた。注ぐ陽の光は、その角度と色合いが夕暮れ時であることを知らせている。

立ち上がってみる。ずっと座っていたせいか、少しふらっとして立ちくらみがする。頭を下にしたまま、イゾルデはゆっくりそっと立ち上がった。体中がびしょ濡れで、泥だらけだった。汗と、雨と、泥水と。顔もきっと泥だらけなのだろう。濡れたナップサックを持ち上げて、洞から外へ出る。

あちこちが水浸しでぬかるんでいる。太陽の光が、草木に乗せられた雨の雫をきらきらと照らしている。雨水を含んで、すべてが豊潤に香っている。草木も、土も。雨に降られて生き返ったようだった。森の全体がきらきらと光っていた。夕日の橙色が、そのすべてをやさしく包んでいた。

イゾルデはほっとした。自分もその橙色に抱かれているように感じた。涙がこぼれて、こぼれ出した涙は止まらなかった。遅れてやってきた嵐のように、イゾルデは洞の前に立ち尽くし、泣いた。しばらく。かなりの時間。仔鹿がどこかで見ていたら心配するかもしれない。泣きながら、そんなことを考えた。

涙が止まりはじめる。両手も、腕も、泥で汚れている。涙は拭わずにそのままにした。目をぎゅっと閉じて、瞳から涙を流し出す。小川の音のする方へ急いだ。小川へ戻るのは難しくない。音がいつでも導いてくれる。仔鹿が案内してくれた道を戻って行く。

嵐の中では何が何だか分からなかったが、この大きな木の一帯は、背丈の低い木々が生え、小さな花があちこちに咲く、森の中に開けた野原だった。花々を見やりながら、その一帯を抜け、針葉樹が生い茂る森の風景へと戻って行く。小川の音はどんどん大きくなって、イゾルデを呼んでいる。

雨水を運んで、小川は豊かに、激しく、大きな音を立てて流れていた。ごおごおと音を立て、下流へ向かって流れて行く。イゾルデは、小川に沿って道なき道を歩き始める。ぬかるみは酷く、あちこちで足をすくわれ、転びそうになる。それでも止まることなく、歩き続ける。

森を出るんだ。このまま、まっすぐに。

イゾルデは強く誓った。

小川は曲がりくねって流れてゆく。ふたつ目のカーブを超えた辺りで、木々の向こうに小さな三角形の屋根が見えてくる。森の出口はすぐそこだったのだ。

小川は右の方へくねり、三角形の屋根はイゾルデのまっすぐ前、生い茂る針葉樹たちの向こうにそのてっぺんを見せていた。小川の流れてゆく方を見てみると、その先の川の上、開けた空間にちいさな虹が架かっていた。

小川の音に別れを告げて、イゾルデは木々の合間をくぐるように抜けてゆく。道はなく、右へ、左へ、木々を交わしながら、ところどころでぬかるみにはまりながら、建物の方向を目指して進んで行った。

太陽はまだあって、その光は夜を少しずつ迎えながら、どんどん優しくなっていた。橙色がイゾルデの背中を照らしている。木々の向こうに白い建物の姿が見えてくる。

木々の茂みから抜け出して。

そこにあるのは小さな教会だった。

夕日に照らされたこじんまりした白い教会。あたたかな家のように見えた。建物の前に出たイゾルデは、閉ざされた扉の前の階段に腰を下ろす。体中のどこもかしこも泥だらけだった。顔も、髪も、きっと酷い有様なのだろう。ナップサックからペットボトルを取り出して、残されていた水を飲み干す。

教会の前には細い一本道があって。

その向こうから、自転車で近づいてくる人がいる。細い髪を風に揺らしながら。自転車の彼はどんどんと近づいてくる。

「イゾルデ!」

彼は、イゾルデを見つけるや否やそう叫んで、自転車を道の途中に投げ出して、走り出した。

彼が呼んだその名前が、イゾルデの中で、何かを少しずつ、溶かしてゆく。何が何だかわからなかった。何かを思い出しているのだろうか。きっと思い出してゆくのだろう。でも。今はまだ、何が何だかわからない。でも、それで構わなかった。

イゾルデは立ち上がる。彼は、満面の笑みで、涙を浮かべながら駆け寄り、泥だらけのイゾルデをぎゅっと抱き寄せた。イゾルデも彼を力一杯抱きしめていた。ぴったりと寄せ合った体と体は、あたたかくて、懐かしかった。帰ってきたんだ。イゾルデはそう知った。それだけは分かっていた。

「ごめんね。ありがとう」

イゾルデは言う。抱き合ったままで彼の顔は見えなかった。彼は何も言わず、両手に一層の力を込めてイゾルデを強く抱き寄せた。それだけで十分だった。ここに帰って来ることを、ずっと望んでいたこと。そのことだけは、今、はっきりとわかっていた。

イゾルデには、それだけで十分だった。

(おわり)